Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
宮内庁の古墳管理って要は立ち入り禁止の立て札でも作って、柵で囲むだけであとは放ったらかし、と言う超手抜きの一番安く済む方法。 定期的な木の伐採とか雑草の除去とか景観の保持とかは金が掛かるからまったくしない。 そうすると必然的に草原から陽樹林になり、そして今私たちが目にする陰樹林(極相、鬱蒼とした森)になる。全国の宮内庁治定の古墳がすべて鬱蒼とした森になっているのは、こうした低予算の放ったらかし「管理」のせい。 鬱蒼とした森が神々しいのではなく、あれはただの「放ったらかし」の貧相な状況なのです。 逆に県や市が管理する「その他」の古墳の方が芝生を植えたり、当時を再現したり、と余程キレイに管理されている。(全てではないが)
去年箸墓古墳を見に行きました。古墳の周りを歩いていたら蛇に遭遇、私だけでなく蛇もビビってました
箸墓古墳の直ぐ傍で、蛇。暗示的ですね。
古代史が大好きなので、このようなチャンネルができて嬉しいです😊これからもよろしくお願いします🤲
ここ近辺歩き回ると三輪そうめんあるんですよね〜私が行ったのはもう10年以上前ですがスイカが使えたのが驚きでした。そのあと黒塚古墳の方までひたすら歩いた懐かしい思い出。
周辺の観光案内的な話として、奈良盆地の東の縁を南北になぞる「山の辺の道」というのがって、桜井から天理まで(或いは更に奈良市内まで)のんびり歩きたい人の為の道が整備されています。手前に田園風景、遠景に生駒山系を眺めながら、ゆるいアップダウンの気持ち良い田舎道を歩くことができます。箸墓は、この山の辺の道からは ちょっと脇に入って寄り道することになります。
箸墓古墳は江戸時代にはオープンフリーで、近くの人は山菜採りなどで気軽に立ち入っていたらしい。笑またてっぺんには「お茶屋」があって、展望が良かったはずだ。きっと名物「箸団子」とかあったのだろう。この斜め横断する山道は、測量図にも記載されている。明治以前には箸墓古墳は、とてもラブリーな存在だった。
場所は全く違いますが、同様に、伊勢神宮の正宮。今(明治以降)は、外御垣が出来て、その中には特別のパスがないと入れません(御垣内参拝)。が、幕末から明治始め以前は、参宮絵図に描かれた通り、外御垣などなく、鳥居をくぐって内御垣御門に押し寄せて拝礼していました。反面、参拝作法は今より遥かに丁重かつ丁寧で慇懃。二拝。蹲踞。傾首して四拍手。一拝。の伊勢神官流。これは、各布教地区を所轄した各御師(神官)が所轄地区からの参宮者に作法を引き受け、伝授しました今より遥かに丁重丁寧、慇懃かと思いします🙇⤵️
昔はどの古墳も立ち入り自由だったそうです。現在より墳墓の形がしっかり見える古写真を見ました。
凄く俺得動画ですね!自分の地元にも小さな古墳が点在していて、凄くロマンを感じます✨
後円部にとあるお菓子屋さんがめり込んでるように見えますね😅 さて 魏氏倭人伝によると卑弥呼は祭祀を司り、男弟が国政を司りとあります この男弟が崇神天皇だったんじゃないかという説もありますね。邪馬台国畿内説として、大和朝廷とのくくりをなくせば時代的に合いますね。卑弥呼の墓であって欲しい
箸は普通に弥生時代に出土例がある。当時の箸はトング(またはピンセット)
いくら静謐を守ると言っても、木が茂り放題というのは良くないでしょうに…。埋蔵物や石室、もし壁画が残されていても木の根の侵入で破壊されるなんてことが起きかねません。後世まで守り伝えるなら遺跡としてきちんと整備すべきだし、その歴史的価値を伝えるためにも一定の調査は必須。なのに、宮内庁は頑固というか頑迷というか…。
樹木伐採ぐらいはした方がいい。普通の墓だって草刈りなどの管理をする。墓守りなき荒れ墓じゃ供養にならない。宮内庁はバチ当たり。
宮内庁が管理放棄をすべき
だってご先祖さまのお墓何でしょう?
木は定期的に伐採してますよ最近は今年か去年にやってます
・長里法でも直径150で一致、墓の前方部はあくまで埋葬するための道・モモソ姫の百襲は、倭人伝に卑弥呼が埋葬される時に100人埋めたから・測定された築造年代もあまり無理がない・昔から大市姫のお墓と言伝えがあり、天皇陵より大きい・崇神記で災害(倭国大乱)が起こった後、モモソ姫が三輪山の神と結婚して収まったとある・倭人伝の邪馬台国の官名にイクメ(乗仁)、ミマカキ(崇神)とモモソ姫と同時期の天皇名に酷似した名前がある・モモソ姫が卑弥呼だとするとイヨは崇神の娘のトヨスキイリ姫になり、年が離れているのも一致する・巻向遺跡はこの時期最大の遺跡で全国からの土器が出土する以上の事から、モモソ姫が卑弥呼で巻向遺跡が邪馬台国であるように思います。
古墳て開発とかで何百って数が既に消えてるんだよなもしかするとその中にとんでもない人物の古墳が有ったかもしれないのに
関東近園も、バブルの頃たくさん潰されてしまったと思いますよ。
この箸墓も、過去に一部削られてしまった跡があります。
そういうの確かにある。自分が知っているのでは道路建設の際に壊してしまったもの。あるいはどこだかには鉄道を敷くために古墳のど真ん中を削ってそこにレールを敷いてしまったもの。ただそういう場合いちよ記録は残しておいて石室などを博物館で保存していることがよくある。
うーん、さすがに有名なのはないと思いますが、近代以前にこっそりと、ただの豪族のはなくなったかもと思います。天皇家のはさすがにないと思いますけど。
潔くてよい。
家の死んだ爺様は、茨城県筑波山麓の豪族出身だったそうです。
3:53 箸ニーは草
なぜ 鍵穴の形の墓を作るのですか
ところどころ不穏なワードが、、、。箸墓古墳は時期、大きさ、場所しか知らなかったので為になりました。
つまり前方後円墳の前方はジオングの足、「あんなの飾りですよ」というわけか
眠っている偉い人にはそれが分からないから付いてるんですね!
面白い🎵
「箸墓」=「土師墓」と言う説もあったな。
宮内庁が言うように皇家の祖先を敬うならばきっちり手入れしろ!って思う。一般人だって墓の雑草抜いたり綺麗に手入れするぞ!
生贄100人が出る所じゃないと卑弥呼の墓とは言えないと思ってる
その条件だと九州の祇園山古墳が1番卑弥呼の墓に近いかもしれませんね。
箸墓古墳と魏志倭人伝の一致性はどのくらいあるんだ?殉葬者の後が100人はあるはずだが?箸墓の内部は石室造りになってるんじゃないのか?
崇神天皇の父方の大叔母の陵墓。魏志倭人伝に登場する卑弥呼と同一人物だという説が有力になっている。
三輪そうめん食べると(しかも「白髭」という極細高級品があるのです)、正直他地域のそうめんは食べたくなくなるです。(申し訳ない・・・・。)
卑弥呼のお墓で、正面からちょっとずれたラインにエネルギーが来ています。
字幕誤変換:×集濠→周濠(堀) 埴輪を巡らせるタイプの古墳は、周濠に多数の埴輪が落ちている場合があります。3世紀ものの古墳だと、壺タイプの土器でしょうけど。
古墳は自然の丘陵などを利用して作られるようだ。だからどういう方向に向かって作られるかは、丘陵に合わせて作られるから古墳によって違うようだ。古墳の被葬者も、身分が高いほど大きいと思われがちだがまあ、確かに大規模な古墳ほど強い権力を握った人間が被葬者になっているのだろうが大王が一番に大きいとか、そういうわけでもないようだこの辺も自然の丘陵を用いて作ったことから生じるのかも知れない
まず少し補足させていただきますと、百襲姫の墓であるというのは、箸墓が大市墓と呼ばれてきた事もありますよ。百襲姫の別名が神大市姫と記されていた事が丹波、海部氏系図にて確認された点も大きいと思います。またその系図には百襲姫の別名を日女命、ヒメミコ、もしくはヒミコと記されていますからね。また百襲姫は桃太郎の姉でもある事から、実は讃岐や愛媛といった、瀬戸内辺りで神として祀られているのも忘れてはいけないと思いますよ。
「神大市姫」は『古事記』にのみ登場する神で須佐之男命の妻としています。海部氏系図では始祖を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とし、その饒速日尊から何世代も後の子孫に「神大市姫」がいます。記紀では饒速日尊の2世代前が須佐之男命が活躍した時代となっています。ヒメミコは聖徳太子(厩戸皇子)の妻が菟道貝蛸皇女(うじかいたこのヒメミコ)である様に古代の女性皇族はヒメミコと呼ばれています。百襲姫に限った事では無いと思います。百襲姫は桃太郎の姉ではなく、吉備津彦の姉です。桃太郎は室町時代末期か江戸時代初期ごろに成立した物語です。
古事記では神大市姫はスサノオの妻となっていますね。実はそこが重視したい点なんですよ。百襲姫の父は孝霊天皇になりますが、孝霊天皇は中国や出雲地方にかけて伝承が多いですからね。しかもスサノオの逸話と共に孝霊天皇の逸話も実は出雲地方にも多く残っています。朝鮮半島から土地をぶんどってきた話も共通な逸話だったり。吉野ヶ里以上といわれる鳥取の弥生時代後期の巨大遺跡、妻木、晩田遺跡の名前も孝霊天皇の嫁とり逸話からだったりとか。つまりスサノオの逸話は孝霊天皇辺りの話を改変、流用したりしてるのでは?という印象ですね。百襲姫は吉備津彦の姉で吉備津彦は桃太郎のモデルでしょう。それは瀬戸内で絶対的な存在として記憶されていたに他ありませんよ。またその関係は巫女王卑弥呼に対して国政を行う弟の図式にはあてはまります。百襲姫は幼少でヤマトから淡路島、讃岐、愛媛と様々な伝承を残して再びヤマトへ大物主に嫁ぐ為に三輪山の麓へ戻るという話です。つまり瀬戸内諸国が女王国、邪馬台国はヤマトという図式だと私は思いますね。箸墓が讃岐や阿波の影響下にあるのはその証明になります。
天之細日女 ( ウズヒメ ) 命の 箸墓古墳の事ですね。もちろん 百々襲姫命です。💚 本名 神大市日女命こと須佐之雄命の 妃で、天之稚日靈貴 波那子姫命と 息長大日大目日彌子姫 命の 生母です。💛 因みに 蛭子こと日子 は、瀬織津日女命とも。 多分 この姫命はうけいの儀式で 産まれ、手足短かったので、或る 里親・豪族へ 養女に預けた、長女だったそうですね。🌼🌿 それと 息長大日靈命は、女性の 天照大御神で、卑弥呼 こと日彌 子は、 古代天皇家の先祖神 天照であり、息長 姓 を 名乗っている為。 未だに 皇居 賢 社所に祭られています。 孫の ニギハヤヒは、物部氏の先祖です。👩✈️🌹(^o^ゞ
海部氏系図は偽書だと思うけどね。。。
とみやまさん、僭越ながら再度の割り込みのコメント失礼します。 百々襲姫命は、神大市穂之子日女命と言う神名です。飽くまでも「 卑弥呼 」 ではありません。 「 魏史倭人伝、ウエツフミ … 」だったでしょうか。 この大市日女命は、宇須正 ( 骨正 うずまさ )王 須佐之烏命の妃です。その子女・姫命は、辛国息長大日女大目卑弥呼こと日彌子命。その妹が、息長稚日女波那子命。後の神功皇后が、6世後の子孫です。因みに 卑弥呼命の皇子は、忍骨耳命です。 その皇子の妃が多久幡千々日女豊子命で、卑弥呼の女王継承者の台与こと豊です。私も、海部氏系図古伝書のことは余り存じませんが、クジ本記もウエツフミも参考になさって頂けたら、幸いです。因みに私も、各古代史研究者のブログ等々をじっくり調べながら、自己研究中です。💛以上の大御神様方を祀っている社は、福岡県香春神社と添田町英彦山神宮と三重県伊勢神宮内宮でしょう。✋👩✈️⛩️🗾🌿🌼
台与こと豊受姫のお墓だと思いますねー。出雲の方墳と九州の円墳を合わせたんじゃないですかねー。
弥生後期の九州の墓制の主流は「方形周溝墓」。円墳はそもそもなかったかと? 系統的には備讃瀬戸域独特の「帆立貝型円丘墓」ないしは吉備の「双方突出型円丘墓(盾築墳丘墓)」に源流がみて取れるかと。地域的にも近いですし。出雲の方墳からは「葺石」の様式と墳墓祭祀の習俗が引き継がれていると思われます(^^)/
モモソ姫命のほうでしょう、おそらく。
隣のホノケ山古墳の披葬者は、出雲伝承では所謂、女王トヨ。宇佐 豊媛命/豊来入媛命(これから古事記等は豊鋤入媛命)、稚日女命、豊受日女命、ウズメ命。(全て同一人物)魏帝国皇帝より母親の宇佐 豊玉媛命(所謂、女王 卑弥呼)の爵位である親魏倭王を正式に継承。
みんな食い物(そうめん)の話しててワロタw
見慣れすぎててでかく感じない件あと、三輪さんは呼ばれないと行けないらしいです迷い込んで建物(神社)の後ろから出てきちゃったといは肝が冷えたなあ・・・
おお、地元の民!神の子孫?
@@田中健一-s1c 様崇めてくれてもええんやで?
@@Ch-lm2yn 様、もちろんそのつもりですよ(^^)/
箸墓の「前方部」は後年に後付けされたもので本来は後円部のみ、つまりは「円墳」だったという話もあったな。
箸は縄文時代には既にあったと聞いたことがありますが、賛同してくれる人いますか?
実際縄文時代の遺跡から出土してるからね
竹田氏は箸に訓読みがあるのは中国から字が伝わる前に独自に持っていた。としていますね。
私はお玉のようなもので煮物(スープ)をすくい、器(木を彫って作ったおわん)に盛り、中国からの使者に提供したと記録があると読んだことがありますよ。
大いに賛成です。基本冬の寒い時期に冷や飯や冷たい魚を食べますか?箸を使うことは熱い食べ物を食べたいからです。縄文時代にしても私の推測でしかありませんが寒い時期は土鍋でのナベ料理が主体だと考えます。当然手づかみじゃあ食べられません。現代でも手づかみで食べる文化がのこっているのはインド、中東など冬でも暖かい地域だけです。
次の動画何時ですか?????????
8月中に出せたら出せます。お待たせしてしまって申し訳ありません。
箸墓古墳と大神神社の中間あたり、桜井市茅原に神御前神社という奇妙な名前の神社があります。御祭神は倭迹迹日百襲姫ですが、この茅原という地名に何かピンと来ませんか?
「蘆屋道満と同居中」国会図書、三重、広島、石川県立、松江市立図書館に蔵書
「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」旧三輪町と「奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)付近」の地名や周りの地形も偶然とは思えないほど酷似しています。御神体も同じ三輪山。また、大己貴神社は別称を大三輪神社 ともいい、古書には「大神(おおみわ)神社」とも ... 日本最古の神社とも言われがあります。調べれば調べるほど面白い!
卑弥呼の墓という説があるのなら神功皇后というのはないのですか?
魏志倭人伝の記述では、卑弥呼の墓は円墳です。でも、邪馬台国への行程すら不正確じゃんと言えばそれまでですが。明治政府が方形を加えたという話はウソです。平成の調査で、二重の周濠跡が確認されていて、当初から前方後円墳です。外側の周濠跡は広く、現在の印象よりも、本来はもっと立派な古墳です。
魏志倭人伝に大きさを書くとき、魏の人が「うーん、前方は儀式用で後円だけが墓だから150m!」って書くとは思えないんですよね前方後円墳というものを魏の使途は知らないんだから、普通に前後合わせて280mで書くんじゃないかなそもそも古墳時代の人が、前方後円墳の大きさについて前と後ろを分けて話をしていたのかも分からないですし当時の人は前後合わせて一つの墓と認識していて、分けて考えるようになったのは現代になってからってことはないでしょうかこういう伝記を書くときは、小さいほうと大きい方の数字があったら大きい方の数字を書くと思いますし
コメントありがとうございます!私は、魏の人が「うーん、後円だけが墓だから150m!」は全然有り得ると思います。重要なのは、魏志倭人伝は国の公式な歴史書であって、魏が邪馬台国に派遣した使者の報告書では無いという事です。歴史書を編纂していく際に、不都合な事実を改竄していることは想像にかたくありません。 仮に卑弥呼の墓が箸墓古墳だとして、魏の使者が大きさや前方後円墳という形状についても詳細に記録したとします。しかし、幾ら王でも蛮族の墓が280mもあるのは中華思想的にはNG(魏の基礎を作った曹操の墓は約736平方mだが、箸墓古墳は約560平方mで、大差ある訳ではない。) なので、実質的に墓の部分である後円部だけの大きさを採用した。このようなストーリーでは如何でしょうか? 前方後円墳が中国には無い形だからこそ、現代人のように前と後ろで分けて考えられたというのも有り得ると思います。もちろん、yukkeyさんが仰っていることも有り得る話だと思います!
以前より箸墓と大市墓のどちらがより適した名称か悩んでいます。「箸」が遣唐使によって伝わった説もあり、卑弥呼の時代は手で食していたとの記述もある一方、スサノオ神話や倭迹迹日百襲姫命の伝説もあり、竹等の箸などは縄文まで遡るとも言われています。最近ではこの辺り、大市の名に相応しく倭の中心地だった事が分かって来ました。さて、その大市墓の主は「女性」なのかどうか?その姿はとても美しい。あえて女性の墓たりと伝わっていることを思えば、その名は限られるが、その中で私は卑弥呼説は完全な否定派です。1. 弟以外に姿を見せない老女王をはたして、民衆が敬愛していただろうか?2. 民衆と大君が敬愛した女王とはヤマトとしての国つくりに貢献し、尚若くして亡くなった人 1から2への命題の移りは特定の人物を指さざるを得なくなる。3. さらに飛躍すると崇神帝代をもう60年繰り上げればAC264年に西晋に朝貢する理由付けになる。細かな内容は言っていないのですが、多くの反論を期待します。
どなたが埋葬されているか判らないけど、この辺り、気持ちよく散策できるように整備されています。
卑弥呼の墓以前に、この箸墓古墳が記紀・万葉集に書かれた箸墓なのかは確実とは言えない。
「魏志倭人伝」が日本に伝わってきたのは、いつ頃(誰、経由)なんだろう?伝わる前の日本では、卑弥呼も邪馬台国も知らない状態だったのだろうし。(違うのか^^;)
発掘調査ができないので、なぜ古墳時代が始まってそして終わったのかの疑問も解明できないのよ。宮内庁の在り方には疑問というより反対です。管理はする必要があるが、学術的調査は認めるべきでしょう。ピラミッドがあるので古墳を「権力者の墓」のみとしてみるのは仕方ないバイアスだと思っているが、「灌漑工事の残土を盛った説」が近年提唱されており、自分もそちらを支持している。明らかにその方が合理性があるんよね。のちに灌漑工事での功労者や時の為政者の墓にしたと。工事規模=古墳の大きさ=功績の大きさ となって合理的。
興味深い説ですね!もしよろしければその「残土説」がよくわかる資料などございましたらご教授願えますでしょうか?多方面の知見を得ればより真実に近づけると思うので(^^)
他の動画でも書いたが、そもそも卑弥呼って魏志倭人伝の記述からなのに、なぜ日本語音読みの「ヒミコ」で研究するのかが全くわからない。当時の魏の言葉で読んでから研究するのが筋だと思うんだが。
一応、古代の発音の研究があちらでも進んでいるようで、それに準ずれば「ぴぃみぃくぉ」「ぴぃみぃかぁ」「ぴぃみぃふぉ」みたいな感じになるらしいです。
@@nekono_mimikon 一番最後の読みかなぁって気はしてますが、まぁそんなのテメェの仮定にすぎません。理由は姫という言葉とため息だと思うからです。
古墳を発掘したからといって何か確定的な事が分かるもの?やっぱ稲荷山鉄剣みたいな文字資料が出てこないとねえ
もう大事なところは盗掘されてる。どのくらい被害にあってるのか?調べた方いいと思うが。
箸墓は未盗掘だってよ良かったじゃん
「先っちょだけ・・・」ウケる(^^)
箸は 竹の者に点がついていますが竹には 節があり 者に点(天)がつくと不死の女神となります大物主 不動明王にしてしまった愛染明王なのです節姫 八百姫
古墳の謎は日本のミステリー私たちシャーロックが謎を解き明かします🌞
私が学生時代(もう30年も前)の話ですが、考古学で邪馬台国を調査しているとある大学教授の講義を半年間受けました。その教授曰く、元寇のころまで中国の人は、九州の門司の先に下関があると思っておらず。薩摩半島の先に下関があると考えていたという文章が残っていると講義していました。そのため、魏志倭人伝による帯方郡からの邪馬台国の移動距離では畿内説に届かない。という変な仮説の講義を受けました。今考えると、お偉いさんの解釈は本当に強引感がありますね。
関係ないですがエジプトのピラミッドは墓では有りません南米のピラミッドのごく一部は墓だったようですが
神殿説とか、あと国家事業としてとかですよね。私は古墳は、田んぼ作るための開拓の副産物説→もったいないので殯(もがり)として再利用説だと思っています。
正直、道を挟んだところにある素麺屋はとても美味しかったです❤️
前方後円墳はギリシャ大文字のアルファとオメガがテルテル坊主の形に結合して、神を意味しイエス様がメシアである、と啓示する。
古墳の上に生えてる木々って意図的に植えてあったのだろか、自然に生えてきたんだろか
自然に生えてきたのかなと思います。古墳建立直後は、土だけで、その平らな土のところに、ハニワがずらーっと並べられていました。木があっては、並べられないですので、今みたいに、うっそうはしてないですね。
自然に生えて、しかも根は古墳まで破壊するので本来は伐採除根すべき。宮内庁の怠慢。
@@sunsun2181 土ではなく表面は葺石で固められてました。なので下から見上げると石積みの丘の縁辺に埴輪が並んでる状態ですね。
@@コウダイ-r1v 今伐採伐根したら墳丘が崩落しますが・・・壊したいの貴方?
@@anaisno1 木がこんなに育つ前にやるべきだったって事だよ。植物が盛り土維持に効果があるのは知ってるが、あきらかにこの現状は育ち過ぎ。根を撤去したら古墳が破壊されると言うなら、それはもう破壊されてるということだ。つまり手遅れ。1度伐根して穴に土を補給補修して昔の遺構を再現しなきゃいけないだろう。宮内庁が管理出来ないから地元のボランティアなど有志で管理した方がいい。いい加減明治維新のデタラメを正す良い機会だ。
卑弥呼の墳墓は円墳。前方後円墳である段階で違いますね。
卑弥呼の墓/円墳説はいろんな人がおっしゃってるんですが、その根拠を知りたいです。よろしければ教えてくんなまし(^^)/
@@田中健一-s1c さん根拠は魏志倭人伝の「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」の部分ですね。直径150mほどの塚。ここから方墳や前方後円墳などではなく、円墳ではないかと考えているわけです。
@@pandaman145 様、ありがとうございます。「径」を円の径とのご判断なんですね。前方後円墳であっても円墳+付け出しと考えればそう取れなくもないと思うのですが。。。後円部墳丘が高く(塚)、前方部が低く平に慣らされていて祭壇状になっていると見えるのですが、いかがお考えですか?墳墓祭祀の発祥の地と言われる出雲「四隅突出型墳丘墓」では墳丘上で祭祀を行っていたと思しき遺構が発見されており、それらを継承すると思われる前方後円墳でも平らな前方部から2段3段高い後円部に向かって祭祀を行う図式を想像すルコとは可能かと思うのですが。。。
@@田中健一-s1c さん、お詳しいですね。当時、塚は何を指したのかは分からないですからね。塚=墓として、前方後円墳がトレンドだったとすれば、塚=前方後円墳ですからね。となると径百余歩という言い方がひっかのもまた事実なのです。知り合いなどは「魏志倭人伝の記述を信じるの?」と言いますけど、気持ちとしてはそのまま読むことに意味があるとも思うので。
@@pandaman145 様、ご丁寧なご返信感謝(^^) 小生の田舎にでかい前方後円墳がありまして、今は墳丘の上にでんと神社が鎮座しております。前方部が参道、後円部が社殿になっていてここから上述のような妄想を広げたしだいです。測量図に基づく復元の様子をみても後円部の盛り上がりに平らな前方部。古墳主体部のある円墳部墳丘を祭祀主体とみて、前方部で儀式が展開されたのであれば「円墳+突き出し」説もありかなと。
古墳が天皇の墓だとわかると宮内庁に管轄になり一般人は入れなくなります
箸墓古墳の築造年は従来説の通り34、50年代が正しい。 纏向遺跡の年代は290年代から37、80年代の遺跡である。 畿内説の根拠は年代しかない。年代がズレたら全て崩れてしまう脆い根拠に依拠している。 その畿内説の年代は歴博の炭素年代に依拠しているが、炭素年代もつまるところ、年輪年代法に依拠するしかない。 何故なら、大気中のc14濃度は常に一定ではなく、その年の宇宙放射線(大部分は太陽活動)によるけど、太陽活動は常に変動してるし、気象条件にも左右されるが、気象条件も常に変動している。 その変動を加味して補正しなければ炭素年代法はまったく意味がない。 しかし、それらの記録は唯一年輪に記録されている訳だから、c14濃度による炭素年代法は結局は年輪年代法に依拠しているのです。 日本の場合は国際標準年輪年代法だとまるで合わないので、奈良の橿原歴史研究所だったかの光谷拓実氏が開発した日本産樹木による年輪年代法が使われている。 ところが、その年輪年代法だと600年頃創建、670年頃全焼し、701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱が594年の伐採と百年も古く狂ってしまう。 畿内説ではこれを無理矢理、え〜い、ンな物古材を使ったんだ‼︎と強弁するしかない。 この解説も、え〜い、ンな物、古材だぁ!と言う前提での解説ですね。 九州説はもちろん、百年も古い古材ではなく、690年代に伐採されたものだろう、と言う極めて常識的な立場で考察してます。 すると、箸墓よりずっと古い勝山古墳で発見された板材の伐採年は180年+アルファ(周辺部の削除年輪分)ではなく、280年代+アルファとなる。 すると勝山古墳は300年代くらいとなり、その後にホケノ山古墳が築造され、その後に箸墓古墳となるので、結局34、50年代が正しい事になる。
歴博のC14AMSが「必ず100年古くでる」と言う科学的拠が知りたいです。そのメカニズムを含め重要なことだと思います。もし素人に看破される程度の稚拙な誤りを犯しているなのならそもそも学説としてすら認められないはず。正面切って科学的な論拠を持って反駁する論考を未だ見たことがないので是非見てみたいです。
田中さんには既に法隆寺の五重塔の芯柱が701〜10年ごろ再建されたにも関わらずその芯柱の伐採年が光谷氏の年輪年代法では594年の伐採となってしまうと言う動かぬ事実をお伝えしています。 ですので、田中さんがこの事実を1、他の大多数の考古学者のように、 んな物百年昔の古材を使ったのだ‼︎ どう言う経緯かは不明。しかし、たまたま古材があったのだ!それを使ったのだ!2、北部九州説論者のように、 古材が都合良くあったのだ!と言うのはご都合主義そのもの。まったく非科学的、不合理な妄想。 科学的かつ合理的に考察するなら、年輪年代法が百年古く狂っている、と結論づけるのが正しい。 つまり勝山古墳は290年台以降の築造であり、その後の箸墓古墳も34、50年代の築造で正しい。(従来説) のどちらを選ぶのですか? 常識的に考えるなら、「たまたま百年昔の古材があったのだ!」などと言うバカバカしい主張はあり得ないでしょう。 でもそれが畿内説の笑えない(いや笑えるか)実態ですよ。 この年輪年代法批判は詳しくは鷲崎弘朋氏の年輪年代法批判に詳しいです。 氏によれば、640年代以前の記録との照合可能な15事例(法隆寺五重塔の芯柱を含む)全てで記録より百年以上古い伐採となってしまうのです。 どうぞ読んでみてください。 畿内説は鷲崎論文へのまともな反論はほとんど抜きで、光谷流年輪年代法を無批判に受け入れて(大歓迎して 笑 鷲崎氏は無視で〜す 笑)あたかも決定済みであるかの如く、箸墓古墳の築造年代は24、60年代だから云々と繰り返しているのです。 考古学会と言うところはかつての旧石器捏造事件でも捏造された遺物を無批判に大歓迎して歴史教科書にも大々的に載せていたのですが、 それが一素人グループの毎日新聞の張り込みで自作自演の捏造だった事が暴露されて一夜で学説が崩壊してしまった事件でも、学会として誰一人責任を取らなかったところですよ。 まったく体質が変わっていないのですよ。
@@風野小太郎-o6h 様、貴重な情報ありがとうございました。私の理解では①光谷判定の一部に鷲崎さんが疑義を唱えていること②光谷判定は追試検証を受けていないこと③ ①についてどちらが正しいのか第三者による検証が行われていないこと④鷲崎さんの論拠として、100年修正を加えてもそのC14AMS値が歴博準備の「日本産樹木較正曲線」と矛盾しないこと以上ですが、光谷判定は追試・検証を受けていないのには驚きました。サイエンスの常識ではあり得ない。同様に鷲崎説もまだ追試・検証を受けていないのでこれを「正」とするには時期尚早かと。標準木データの開示が必須ですね。鷲崎さんの提唱される様に、全部もう一回C14AMSで再評価して白黒はっきりさせて欲しいものです。ただ、鷲崎氏も「古材と再判定されるとしてもその可能性は否定しない」と述べておりまだ「動かぬ事実」と述べるのには時期尚早かと。第三者の検証待ちでしょう。であったとしたら尚更年代判定には慎重になるべきで「年代特定は有力な反論あり検証待ち」とすべきでしょうね。だからと行って九州説が正しいとの根拠にもなりませんけどね。情報のご提供、重ねて御礼申し上げます。感謝(^^)/
@@風野小太郎-o6h様、鷲崎提案によって光谷判定が揺らいでいるわけですが、考古学会が信頼できないとするなら、これまで考古学会が営々とと築き上げてきた土器編年に基づく年代観は何を持って正しいとするのでしょうか?「古墳時代は4Cから」の根拠もなくなるのでは?
卑弥呼ちゃんはかわいい女の子だったんですか?
多分そうだと思います。知らんけど。
FGOの巨乳痴女卑弥呼ちゃまなら忠誠を誓います
伊勢神宮は、2500年前に京都の天橋立の近くにありました。3種の神器が皇居があるのは、困る事があるのとゆう事で、祟神天皇の時に色んな土地を転々として伊勢に3種の神器が納められた。今も元伊勢神社は、あります。ここには、真名井の井戸があります。石川県白山市の金劔宮にも真名井の井戸があります。祟神天皇が紀元前95年に作られたとあります。卑弥呼が統治したのが242年から248年、 700年を超える月日の差は無理があるのでは?新井白石は、邪馬台国と邪馬壱国とあったのを邪馬台国に統一したそうです。この辺に問題がありそうです。
魏の使者の記録に、卑弥呼の墓は径100余歩・・・とあるので、円墳でないとつじつまが合わないんだよな。どんなぼんくらでも前方後円墳を円墳と見間違いはしない。そもそも、箸墓みたいな巨大古墳つくれる大勢力なら、戦争で負けそうだから援軍頂戴・・・なんてわざわざ帯方郡になきついたりしないわ。でその返答が「魏の旗かしたるから、これでがんばれ・・・」だぞ。畿内説は根本的な部分で狂ってる。牽強付会もたいがいに。
前方後円墳は墳形を仔細に見れば、円墳+突き出し(前方部)と見れなくもないのですが。後円部は前方部に比して墳頂高く盛り上がってるので。。。こじつけですかね?あと、軍事力って直接の行使だけでなく「威圧」「示威」も立派な軍事行動と思うのですが。その際「錦の御旗(黄旗)」を掲げて「威圧」することで「戦わずして勝」ことも可能になろうかと。結構戦争って消耗するので。。。。これもこじつけですかね。
@@田中健一-s1c まあ、魏の使者が前方後円墳を「径100余歩」と報告書に表現するものかどうかって話で。もし前方後円墳のような特異な墳墓を見たなら、その突出部を何らかの表現で嬉々として書かないはずがないと思います。また、100余歩・・・60m前後の小型古墳ですので、なおさら巨大前方後円墳ではありえないと思います。軍事については、敵対勢力が丸腰に近い使者の往来を見過ごすはずが有りません。当然、挟撃のための相談と疑います。1回きりのお忍びの交渉なら成功もあるでしょうが、生口ぞろぞろつれていく往来など論外で中間に敵対勢力がある場合は突破できる軍編成でなければならないでしょう。旗については、数千数万の軍勢が動員される大国同士の戦いになれば、その敵対勢力を威圧するためにはそれに見合う「ブツ」が必要で黄旗で威圧が効く条件として、敵対勢力も魏の実力を十分知っている必要がありますが、邪馬台国の敵対勢力側の使者が魏に到来した記録はなく、「なにかでかい国があるらしいけど知らんなあ?」程度でしょう。それを威圧するのにただの旗が効くものかどうか甚だ疑問でしょう。
@@たぬきねんね 様、貴重な視座、ありがとうございます。弥生時代中期には威信材たる大陸産の鏡や刀剣類が全国に伝播するようになります(全国といっても関東近辺までですが)また利器としての鉄器も当時輸入に頼っていたわけで(国内製鉄が確率されていない)それの供給元としての「大陸」の存在は各地の首長達の知るところであったと思われます。邪馬台国は連合王国と思われそのバックにはさらに強大な「魏」がある。またそれは同時に「鉄器」の流通を牛耳られていた証でもあるので、となればその「威圧」効果は抜群ではなかったかと。。。
@@たぬきねんね 様、追加で失礼。。。径百余歩=60mとする根拠はなんなでしょうか?これ諸説あり当方困惑しております。また、コメ中「挟撃」とありますが、位置関係が飲み込めていません。できましたらご説明をお願いしたいのですが?
あれ?倭人伝に 径100余歩 と有ったと記憶していますが。100歩ちょいであれば、1歩60cmとしてざっと60mでは。もし畿内説の場合は、敵対勢力が九州か中国地方になるので敵対勢力からみて挟撃の危機になります。(敵対勢力が近畿以遠の東海関東東北の場合は邪馬台国が近畿から九州一円を支配下に収めた大帝国になってしまい、邪馬台国が発展してヤマト王権に成長することになりますが、そうなるとヤマト王権側の地方討伐戦が不要になり四道将軍などとの整合性がなくなります。)
掘ったところで既に盗掘されてるだろうから歴史を根幹から揺るがすような物は何も出てこないと思うけどな
宝塚なんて宝が埋まっている塚が多いっていう逸話があったくらいのところもあるからね。
本人が物まね芸人に寄せていってる感じに思えるんだよなあ箸墓=卑弥呼説はw。
天照大神と、鬼道に長けた卑弥呼女王とは、別人です。又、天照大神は、神話上の創作された女神でしかない。伝説や妄想から出た創り神。
宮内庁、さっさと学者に調査OKにすればいいのにねえ・・・・。まあ、英国みたいに、「えー、この王様は実は先代の王様の子供じゃない!」っていうDNA結果が出てくるかもしれないですが(苦笑)
他の国と違って、天皇家は3世紀とか4世紀の古墳時代から続いていますからね。もしも、途中で断絶していたりしたら天皇家の沽券にかかわる。また多くの歴史学者が、宮内庁が「○○天皇陵」と言い張っている古墳の半分近くは、別の天皇の墓である可能性が高いと言っているので、宮内庁としては特定されてはマズイと思っている部分もあるようです。
@@アサヤス-w8v そう嘘付くように指導した明治政府がみんな悪い。
幕末から明治にかけては延喜式などの文献や地名、地元の伝承などを元に治定していたので、現在の基準から比べれば不正確になるのは仕方ないですね。ただ200メートル以上ある巨大古墳を発掘調査なんて一体何十年かかるのかと…?発掘結果がでるたびに治定を変えていたらキリがない。皇室解体願望を持つ左翼学者や、発掘調査に伴う公共事業を当て込んだ土建屋等を喜ばせるだけなら陵墓の発掘なんて永久にしないほうがましだと思います。
@@keroagunso え?たったの200mでしょ?逆に一年なら一年と期限を決めて調査許可すりゃ良い。ようはやる気の問題。
@@コウダイ-r1v 雑な発掘で破壊されるくらいなら永久にしないほうがまし。左翼喜ばせるだけなら邪馬台国なんて謎のままで結構。どこぞのネズミの国じゃないけど「卑弥呼は皆さんの心の中に住んでいます」でいいです。下劣な左翼喜ばせるカネがあるならそれこそ「福祉に回せ」と言いたいです。
もし、ここを発掘調査できたら邪馬台国論争決着するんだろうか?
畿内は、まあ邪馬台国ではないと思います。学派が、発掘予算がほしいから、畿内説にこだわっている先生がいるだけで(笑) むしろ、出雲一族の勢力の確認はできるかもしれません。大物主の奥さんかもしれないですし。
私は100%畿内だと思いますね😅でも奈良盆地ではなくもっと広い範囲のはずです、七万ですから。文化財発掘の予算に邪馬台国問題は関係しませんよ、普通。特に奈良のように歴史的遺産が多い場所は、邪馬台国問題が特別視される事はあまり無いです。
長浜浩明さんの動画を見るといいですよ^^申し訳無いですが、畿内説はファンタジーです^^;
@@pocapamas 特に得るものはありませんでしたね、畿内説で確信しましたよ😃
@@トミヤマ-c6r すみません。コメント主のKKさん言ったつもりでした^^;あの動画を見れば、一発で古代の謎が氷解しますからね^^
後世のテキトウ補修で円墳から前方後円墳になったはずですよ。
えっ そうなん?
箸墓古墳は違いますよ。昔からずっと前方後円墳でした。その手の話では桝山古墳(奈良県橿原市)のが有名で、おそらくそちらと混同されているのでしょう。意図的に方墳から前方後円墳に改修しているので適当ではありませんが。
まあ、当時の人がどう思っていたかやね。円墳部が墓で、後方部は祭祀を行う場所と言う認識だった可能性は否定出来ないと思う。まあ、実際の所は分からないけど。
それも長い年月で歴史の一部となる。そして現代も未来からこう言われる。「なんかほったらかしにしてたから樹木でみんな破壊されちゃったようだよ」
後方部でなく、前方部の間違いね。Up主さんには直接返信したことはないけど、こんなコメントも見て貰ってるのかな?
世界トップ盛り盛り日本史
このチャンネルの動画全てが畿内説論者が作った事は間違いないようだね。
邪馬台国が近畿地方にある可能性は非常に低いと思います。当然、卑弥呼の墓である可能性は非常に低いと思います。ただ、倭迹迹日百襲媛命の墓である可能性も低いと思います。実際に調べないと分からない事だらけなんですけどね。
2000年に箸墓古墳の周濠内から布留0式期とともに木製の輪鐙が出土している。池を混ぜくった跡がない事から後から混入した形跡はない。布留0式期は西暦260年から290年の間とされるが、鐙は中国で西暦290年から300年までに発明されており発明当初は金属だった(鐙を金編に登ると書くのはこのため)木製の鐙は更に後の時代になって高句麗周辺で発明された。鐙の発明と日本への伝来時期を考慮すると箸墓古墳の築造は西暦350年以降でないと矛盾する。箸墓古墳は卑弥呼の墓はおろか台与の墓でもない。木製の鐙の出土は畿内説の人は質問してもみな無視している。
農具や武器もそうだが、一般的に道具というのは、最初は木でつくられて、青銅や鉄製品に取って代わられるもの。馬の使用は鉄器の発明以前からやってたんじゃないの?鎧があれば便利だという発想があれば、最初は木製で作ったかも知れない。ただ壊れ易いし、腐食してしまうので発見されることが滅多にないというだけかも知れないし、今後絶対発見されないと断定も出来ないと思う。
鐙が発明される以前は紐に結び目を付け、足の親指と人差し指の間に挟んで足掛かりとして馬に乗り降りした。確認できる最古の物は302年に埋葬された鮮卑の墓から出土した陶馬俑。実物として最古の物は北燕(407~436年)貴族の馮素弗の副葬品。何れも金属製の片鐙。乗り降りする時のみ使用したため片方のみ有れば足りたからだ。最古の木製の鐙は韓国から百済時代(4世紀半)のもので木製に金属板を巻き付けたもの。木製の輪鐙は両方の足を通して使い、馬の乗り降りだけでなく、馬を操作するのに使った。金属製の鐙より進化したものだ。木製から金属に代わるのは日本のような樹木の多い国であり、一般に馬は樹木がほとんどない草原地帯に生息する。遊牧民であった鮮卑族だからこそ木製より金属の方が入手し易かった。金属も木と同じく腐植するが、陶器は腐植しない。金属製が先で木製が後時代に発明されたことが世界史の常識です。ちなみに箸墓古墳から出土した木製の輪鐙は5世紀初頭の特徴があるそうです。
お詳しい方に恐縮ではあるのだけど、木の多い日本だからこそ、金属製のものを真似て木で作ったとも考えられるのでは?鎧の知識のある渡来系の人物もいたかも知れないし。箸墓は出土した土器や炭素年代測定でも260〜280頃に出来たとする考古学者が多いと思うんだけどね。崇神も3世紀終わりから4世紀初めの人物とする意見が多数であるし、記紀に拠れば、崇神が纏向に入った時には箸墓は出来てた筈だから。出土例の少ない鎧だけで、全否定するのはどうなのかなと。まあ、私も同時代にいた訳ではないから何とも言えんけど。(笑)
西暦290~300年間に中国で発明された鐙を箸墓古墳の西暦260~280年間に真似できるのかい?矛盾するでしょう。鮮卑族は中国の内地(旧満州付近)に住んでいました。そこから朝鮮半島の高句麗に伝来したのは半世紀後です。日本が高句麗と接触したのは広開土王の時代(380年ごろ)とされ広開土王と戦った時に初めて馬と遭遇したと考えられています。「中国より古い世界最古の鐙は日本だ」といえばお隣の国の何でも起源説と同じで世界の笑い者になりますよ。箸墓古墳から出土した布留式土器の編年は学者により開きがあり、250年頃に始まったとする学者や350年以降に始まったとか、未だに確定されていません。また炭素年代測定の記事を読めば分かりますが「260年~280年という値が出た」と表現し、最も多くの値が出たピーク時の年代については触れていません。公開されている調査結果のグラフを見れば分かりますが、ピーク時が350~400年となっており調査した全体の84.8%がこの間に含まれています。理科の実験でもピーク時を採用し他は誤差とするでしょう?年輪年代測定も手法が非公開になっており、他人が検証出来ないので信憑性がないとされてます。すべて邪馬台国が奈良にあって欲しいと願う人たちの神の手なんです。
狛犬 なるほどね。箸墓の年代が不確定というのは理解できるが、纏向遺跡はどうなのかな? これも3世紀後半じゃないという見解?また、3世紀末期か4世紀初頭と目される黒塚古墳は?
箸墓古墳には、邪馬台国の卑弥呼女王は、眠っていません。鬼道に長けた卑弥呼女王様は、九州の阿蘇山が見える地の、何処かに眠っています。
え?ヤマトトトトトトトトトトトトトの紐?(難聴)
何かをひた隠しにする宮内庁…(はいはい、陰謀論 笑)
邪馬台国は北部九州です。箸墓古墳には当時はまだ全国を手中に収めていなかった大和「王権」時代の遺物が眠っているはずですよ^^詳しくは長浜浩明氏の動画をチェック!ruclips.net/video/06iCDVAh0FQ/видео.htmlruclips.net/video/zvDZL4Avjqk/видео.html
呼ばれたようなのでコメントを😃まず北部九州には倭人伝を読む限りは存在できるような場所はないですね。伊都と奴国二万戸で一杯になりますよ。当時魏の資料では高句麗でさえ三万戸の国なんですが😅
冒頭、歴史学は総合学問だとおっしゃってます。当世の大方の先生方も当然その辺の理解の上に論を張ってますよ。「先生方の勝手な思い込み」と切って捨てていらっしゃいますが、長浜さんこそ「考古学的事実」とか「社会学的考察」とか「政治学的考察」とかが欠落してるんじゃないですかね?考古学的事実(観察的事実)と文献史学の見解の相違を埋めていく行為が「歴史学」なんじゃないですか?字面通り読めば九州かなとも思えるのですが、前項「トミヤマ」氏のご指摘の通り考古学的裏付けがない。女山古墳群の出土遺物が出てましたが、こんなもの全国の首長墓と思しき墓では普通にでる(村長さんレベルですよ)。女山古墳群出土遺物から「盟主墓(30ヵ国を束ねる王・大王)」足るに値する根拠は得られるのでしょうか?
@@田中健一-s1c 邪馬台国は盟主と言っても熊本すら圧倒できずに小競り合いをしていた小国連合レベルです。魏志倭人伝に書かれている「倭」は北部九州限定の話ですね。当時中国~東海まで手中に収めていた大和王権とは違います。あ、いや、違うと言ってもチャイナから見れば倭種ですが。(東にある千里の海を越えると、また倭種が住んでいるという記述。)考古学的には、漢の時代から朝見していたという記述を考えると、卑弥呼の時代まで200~400年間あるのに、魏志倭人伝に書かれている倭人の使っていた道具の出土は九州が圧倒していますよね。現代人が想定するような大規模遺跡が出てこないというより、その想定を疑った方がいいかもしれませんね。神武東征が終わったのが前70年で、そこから勢力を拡大していき、卑弥呼の時代は九州平定を目前としていました。長浜先生は大阪平野の発達史を調べ記紀を読み解きました。九州制圧や刺青に関する記述の部分、まさに先生の言う通りですよね。ちなみに、長浜先生の記紀の話は、田中さんはどうお考えですか?記紀に関する記述は動画より長浜さんの本の方が詳しく載っていたかも。安いので買って読んでみてください。
@@トミヤマ-c6r トミヤマさん、レスするのを忘れていましたよ。>伊都と奴国二万戸で一杯になりますよ。魏志倭人伝には離島の戸数も書かれているので福岡・筑紫平野が離島の数倍しか人口を維持できない、本土が離島に毛が生えた程度っていうのは肌感覚では理解出来ないので是非そのロジックをお聞かせください。まあ海外からも食料を調達出来る現代では当時とは情勢が全く違うので参考程度ですが福岡や関東を見れば離島と本土では数百~数千倍の人口差がありますね。いや、当時でさえ対馬壱岐は海を渡って貿易し食料調達してたと記述があるから、あながち間違いでもないかな。それはさておき、出来たらでいいので、お願いします。
@@pocapamas まず当時の魏史東夷伝によれば高句麗という、半島北側の国で三万戸とあります。内陸部で当時は戦乱もあり荒廃気味の国ではありますが、倭の大国である伊都や奴国との比較を考えてみればどうでしょう?ちなみに伊都は千戸ではなく一万戸という資料もあります。また倭は基本的に海人の国々だと思いますので、内陸部に国々を作るか?という根本的な疑問もあります。そう考えると北部九州に奴国以上の海人の国、五万、七万戸と比定する事はとても考えられないと思います。奈良に海はないという方も多いでしょうが、私は二上山や信貴山辺りを中心に河内湖周辺を含む畿内だろうと思います。河内湖周辺は物部や蘇我の集落も多く海も近いですからね。
言葉が何言ってのか判らん。
ホモくさい会話のやりとりに古墳映える
性病でおじゃるな…
3世紀の大和地方に強大な国家権力が生まれるだけの経済的基盤はなかったと思う。当時の日本の商工業、貿易の中心地域は日本海側。瀬戸内海に船が通れるようになるのは、5世紀後半以降。箸墓は卑弥呼の墓ではないだろう。出土品の年代測定など、誰のどんな恣意が働いているかわかったものではないし、当てにならない。宮内庁が古墳の発掘を許可しないのは、全てが覆されるからだと思う。古墳はそもそも治水・灌漑などの土木事業によってでた廃土を盛ったモノだ。その証拠に、大和川流域に大規模な古墳群が存在する。洪水時には避難場所にもなったはず。水稲技術が大陸から導入され、基幹産業になった時期と符合する。王の墓としての性格は、二次的なモノ。「王様、死んでも我らをお守りください」ということだろう。古墳時代が突如終わったのは、それ以上やるべき大規模土木事業がなくなったから。仏教が入ってきたのも大きいかも知れない。
考古学的にみれば2~3世紀に瀬戸内を始めとする西日本を抑えていたのは吉備ですその吉備の葬送祭祀が畿央部に入っているということは、吉備による畿央部の支配もしくは吸収合併的な連合が生じた証しですもっと言ってしまえば、纏向遺跡は吉備の王の都と呼んでも過言ではないでしょう2~3世紀の河内平野と大和平野は吉備の遺物だらけですそれから、古墳は吉備や播磨などの弥生墳丘墓から発達してきたもので、廃土を盛ったモノというのは認識不足に過ぎませんマウンドを作って、そこに遺体を葬るというのは弥生前期が存在し、受け継がれてきた墓制ですそれに、河内平野を見ても古墳群や大きな遺跡があるのは、だいたい川の傍ですこれは石材などの物資を運ぶのに便利だった可能性が高いからでしょうあと、宮内庁が発掘を許可しないのは天皇が眠る可能性が高い墓だからで、覆されるからというのは邪推にすぎませんそもそも他の古墳の発掘によって、遺構遺物のデータベースができあがっており、この古墳を掘ればどういうものが出てくるというのはじゅうぶん推測可能だからです年代測定も含め考古学の成果を信じないというのは好き好きですが、信じないであれば考古学には口を出さないほうがよいですよ
@@00925187 様、秀逸な論考、感服です。
それが正しい気がする。崇神天皇辺りが本当は初代、でもそれでは出自が明らかになってしまうので欠史にせざるを得なかった。
なんでもかんでも近畿説にもっていくなよな。有り得ない
宮内庁の古墳管理って要は立ち入り禁止の立て札でも作って、柵で囲むだけであとは放ったらかし、と言う超手抜きの一番安く済む方法。
定期的な木の伐採とか雑草の除去とか景観の保持とかは金が掛かるからまったくしない。
そうすると必然的に草原から陽樹林になり、そして今私たちが目にする陰樹林(極相、鬱蒼とした森)になる。全国の宮内庁治定の古墳がすべて鬱蒼とした森になっているのは、こうした低予算の放ったらかし「管理」のせい。
鬱蒼とした森が神々しいのではなく、あれはただの「放ったらかし」の貧相な状況なのです。
逆に県や市が管理する「その他」の古墳の方が芝生を植えたり、当時を再現したり、と余程キレイに管理されている。(全てではないが)
去年箸墓古墳を見に行きました。古墳の周りを歩いていたら蛇に遭遇、私だけでなく蛇もビビってました
箸墓古墳の直ぐ傍で、蛇。暗示的ですね。
古代史が大好きなので、このようなチャンネルができて嬉しいです😊これからもよろしくお願いします🤲
ここ近辺歩き回ると三輪そうめんあるんですよね〜
私が行ったのはもう10年以上前ですがスイカが使えたのが驚きでした。
そのあと黒塚古墳の方までひたすら歩いた懐かしい思い出。
周辺の観光案内的な話として、奈良盆地の東の縁を南北になぞる「山の辺の道」というのがって、桜井から天理まで(或いは更に奈良市内まで)のんびり歩きたい人の為の道が整備されています。手前に田園風景、遠景に生駒山系を眺めながら、ゆるいアップダウンの気持ち良い田舎道を歩くことができます。箸墓は、この山の辺の道からは ちょっと脇に入って寄り道することになります。
箸墓古墳は江戸時代にはオープンフリーで、近くの人は山菜採りなどで気軽に立ち入っていたらしい。笑
またてっぺんには「お茶屋」があって、展望が良かったはずだ。きっと名物「箸団子」とかあったのだろう。この斜め横断する山道は、測量図にも記載されている。明治以前には箸墓古墳は、とてもラブリーな存在だった。
場所は全く違いますが、同様に、
伊勢神宮の正宮。
今(明治以降)は、外御垣が出来て、その中には特別のパスがないと入れません(御垣内参拝)。
が、幕末から明治始め以前は、参宮絵図に描かれた通り、外御垣などなく、鳥居をくぐって内御垣御門に押し寄せて拝礼していました。
反面、参拝作法は今より遥かに丁重かつ丁寧で慇懃。
二拝。蹲踞。傾首して四拍手。一拝。
の伊勢神官流。
これは、各布教地区を所轄した各御師(神官)が所轄地区からの参宮者に作法を引き受け、伝授しました
今より遥かに丁重丁寧、慇懃かと思いします🙇⤵️
昔はどの古墳も立ち入り自由だったそうです。現在より墳墓の形がしっかり見える古写真を見ました。
凄く俺得動画ですね!
自分の地元にも小さな古墳が点在していて、凄くロマンを感じます✨
後円部にとあるお菓子屋さんがめり込んでるように見えますね😅 さて 魏氏倭人伝によると卑弥呼は祭祀を司り、男弟が国政を司りとあります
この男弟が崇神天皇だったんじゃないかという説もありますね。邪馬台国畿内説として、大和朝廷とのくくりをなくせば時代的に合いますね。卑弥呼の墓であって欲しい
箸は普通に弥生時代に出土例がある。当時の箸はトング(またはピンセット)
いくら静謐を守ると言っても、木が茂り放題というのは良くないでしょうに…。埋蔵物や石室、もし壁画が残されていても木の根の侵入で破壊されるなんてことが起きかねません。後世まで守り伝えるなら遺跡としてきちんと整備すべきだし、その歴史的価値を伝えるためにも一定の調査は必須。なのに、宮内庁は頑固というか頑迷というか…。
樹木伐採ぐらいはした方がいい。
普通の墓だって草刈りなどの管理をする。
墓守りなき荒れ墓じゃ供養にならない。宮内庁はバチ当たり。
宮内庁が管理放棄をすべき
だってご先祖さまのお墓何でしょう?
木は定期的に伐採してますよ
最近は今年か去年にやってます
・長里法でも直径150で一致、墓の前方部はあくまで埋葬するための道
・モモソ姫の百襲は、倭人伝に卑弥呼が埋葬される時に100人埋めたから
・測定された築造年代もあまり無理がない
・昔から大市姫のお墓と言伝えがあり、天皇陵より大きい
・崇神記で災害(倭国大乱)が起こった後、モモソ姫が三輪山の神と結婚して収まったとある
・倭人伝の邪馬台国の官名にイクメ(乗仁)、ミマカキ(崇神)とモモソ姫と同時期の天皇名に酷似した名前がある
・モモソ姫が卑弥呼だとするとイヨは崇神の娘のトヨスキイリ姫になり、年が離れているのも一致する
・巻向遺跡はこの時期最大の遺跡で全国からの土器が出土する
以上の事から、モモソ姫が卑弥呼で巻向遺跡が邪馬台国であるように思います。
古墳て開発とかで何百って数が既に消えてるんだよな
もしかするとその中にとんでもない人物の古墳が有ったかもしれないのに
関東近園も、バブルの頃たくさん潰されてしまったと思いますよ。
この箸墓も、過去に一部削られてしまった跡があります。
そういうの確かにある。自分が知っているのでは道路建設の際に壊してしまったもの。
あるいはどこだかには鉄道を敷くために古墳のど真ん中を削ってそこにレールを敷いてしまったもの。
ただそういう場合いちよ記録は残しておいて石室などを博物館で保存していることがよくある。
うーん、さすがに有名なのはないと思いますが、近代以前にこっそりと、ただの豪族のはなくなったかもと思います。天皇家のはさすがにないと思いますけど。
潔くてよい。
家の死んだ爺様は、茨城県筑波山麓の豪族出身だったそうです。
3:53 箸ニーは草
なぜ 鍵穴の形の墓を作るのですか
ところどころ不穏なワードが、、、。箸墓古墳は時期、大きさ、場所しか知らなかったので為になりました。
つまり前方後円墳の前方はジオングの足、「あんなの飾りですよ」というわけか
眠っている偉い人にはそれが分からないから付いてるんですね!
面白い🎵
「箸墓」=「土師墓」と言う説もあったな。
宮内庁が言うように皇家の祖先を敬うならば
きっちり手入れしろ!って思う。
一般人だって墓の雑草抜いたり綺麗に手入れするぞ!
生贄100人が出る所じゃないと卑弥呼の墓とは言えないと思ってる
その条件だと九州の祇園山古墳が1番卑弥呼の墓に近いかもしれませんね。
箸墓古墳と魏志倭人伝の一致性はどのくらいあるんだ?
殉葬者の後が100人はあるはずだが?
箸墓の内部は石室造りになってるんじゃないのか?
崇神天皇の父方の大叔母の陵墓。魏志倭人伝に登場する卑弥呼と同一人物だという説が有力になっている。
三輪そうめん食べると(しかも「白髭」という極細高級品があるのです)、正直他地域のそうめんは食べたくなくなるです。(申し訳ない・・・・。)
卑弥呼のお墓で、正面からちょっとずれたラインにエネルギーが来ています。
字幕誤変換:×集濠→周濠(堀)
埴輪を巡らせるタイプの古墳は、周濠に多数の埴輪が落ちている場合があります。3世紀ものの古墳だと、壺タイプの土器でしょうけど。
古墳は自然の丘陵などを利用して作られるようだ。だからどういう方向に向かって作られるかは、丘陵に合わせて作られるから
古墳によって違うようだ。
古墳の被葬者も、身分が高いほど大きいと思われがちだが
まあ、確かに大規模な古墳ほど強い権力を握った人間が被葬者になっているのだろうが
大王が一番に大きいとか、そういうわけでもないようだ
この辺も自然の丘陵を用いて作ったことから生じるのかも知れない
まず少し補足させていただきますと、百襲姫の墓であるというのは、
箸墓が大市墓と呼ばれてきた事もありますよ。
百襲姫の別名が神大市姫と記されていた事が丹波、海部氏系図にて確認された点も大きいと思います。
またその系図には百襲姫の別名を
日女命、ヒメミコ、もしくはヒミコと記されていますからね。
また百襲姫は桃太郎の姉でもある事から、実は讃岐や愛媛といった、瀬戸内辺りで神として祀られているのも忘れてはいけないと思いますよ。
「神大市姫」は『古事記』にのみ登場する神で須佐之男命の妻としています。海部氏系図では始祖を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とし、その饒速日尊から何世代も後の子孫に「神大市姫」がいます。記紀では饒速日尊の2世代前が須佐之男命が活躍した時代となっています。
ヒメミコは聖徳太子(厩戸皇子)の妻が菟道貝蛸皇女(うじかいたこのヒメミコ)である様に古代の女性皇族はヒメミコと呼ばれています。百襲姫に限った事では無いと思います。
百襲姫は桃太郎の姉ではなく、吉備津彦の姉です。桃太郎は室町時代末期か江戸時代初期ごろに成立した物語です。
古事記では神大市姫はスサノオの妻となっていますね。
実はそこが重視したい点なんですよ。百襲姫の父は孝霊天皇になりますが、
孝霊天皇は中国や出雲地方にかけて伝承が多いですからね。
しかもスサノオの逸話と共に孝霊天皇の逸話も実は出雲地方にも多く残っています。
朝鮮半島から土地をぶんどってきた話も共通な逸話だったり。
吉野ヶ里以上といわれる鳥取の弥生時代後期の巨大遺跡、妻木、晩田遺跡の名前も孝霊天皇の嫁とり逸話からだったりとか。
つまりスサノオの逸話は孝霊天皇辺りの話を改変、流用したりしてるのでは?という印象ですね。
百襲姫は吉備津彦の姉で吉備津彦は桃太郎のモデルでしょう。
それは瀬戸内で絶対的な存在として
記憶されていたに他ありませんよ。
またその関係は巫女王卑弥呼に対して国政を行う弟の図式にはあてはまります。
百襲姫は幼少でヤマトから淡路島、讃岐、愛媛と様々な伝承を残して再びヤマトへ大物主に嫁ぐ為に三輪山の麓へ戻るという話です。
つまり瀬戸内諸国が女王国、邪馬台国はヤマトという図式だと私は思いますね。
箸墓が讃岐や阿波の影響下にあるのはその証明になります。
天之細日女 ( ウズヒメ ) 命の 箸墓古墳の事ですね。もちろん 百々襲姫命です。💚
本名 神大市日女命こと須佐之雄命の 妃で、天之稚日靈貴 波那子姫命と 息長大日大目日彌子姫 命の 生母です。💛
因みに 蛭子こと日子 は、瀬織津日女命とも。 多分 この姫命はうけいの儀式で 産まれ、手足短かったので、或る 里親・豪族へ 養女に預けた、長女だったそうですね。🌼🌿
それと 息長大日靈命は、女性の 天照大御神で、卑弥呼 こと日彌 子は、 古代天皇家の先祖神 天照であり、息長 姓 を 名乗っている為。 未だに 皇居 賢 社所に
祭られています。 孫の ニギハヤヒは、物部氏の先祖です。👩✈️🌹(^o^ゞ
海部氏系図は偽書だと思うけどね。。。
とみやまさん、僭越ながら再度の割り込みのコメント失礼します。 百々襲姫命は、神大市穂之子日女命と言う神名です。
飽くまでも「 卑弥呼 」 ではありません。 「 魏史倭人伝、ウエツフミ … 」だったでしょうか。
この大市日女命は、宇須正 ( 骨正 うずまさ )王 須佐之烏命の妃です。その子女・姫命は、辛国息長大日女大目卑弥呼こと日彌子命。
その妹が、息長稚日女波那子命。
後の神功皇后が、6世後の子孫です。因みに 卑弥呼命の皇子は、忍骨耳命です。 その皇子の妃が多久幡千々日女豊子命で、卑弥呼の女王継承者の台与こと豊です。私も、海部氏系図古伝書のことは余り存じませんが、クジ本記もウエツフミも参考になさって頂けたら、幸いです。
因みに私も、各古代史研究者のブログ等々をじっくり調べながら、自己研究中です。💛
以上の大御神様方を祀っている社は、福岡県香春神社と添田町英彦山神宮と三重県伊勢神宮内宮でしょう。✋👩✈️⛩️🗾🌿🌼
台与こと豊受姫のお墓だと思いますねー。出雲の方墳と九州の円墳を合わせたんじゃないですかねー。
弥生後期の九州の墓制の主流は「方形周溝墓」。円墳はそもそもなかったかと? 系統的には備讃瀬戸域独特の「帆立貝型円丘墓」ないしは
吉備の「双方突出型円丘墓(盾築墳丘墓)」に源流がみて取れるかと。地域的にも近いですし。出雲の方墳からは「葺石」の様式と墳墓祭祀の習俗が引き継がれていると思われます(^^)/
モモソ姫命のほうでしょう、おそらく。
隣のホノケ山古墳の披葬者は、出雲伝承では
所謂、女王トヨ。
宇佐 豊媛命/豊来入媛命(これから古事記等は豊鋤入媛命)、稚日女命、豊受日女命、ウズメ命。(全て同一人物)
魏帝国皇帝より母親の宇佐 豊玉媛命(所謂、女王 卑弥呼)の爵位である
親魏倭王を正式に継承。
みんな食い物(そうめん)の話しててワロタw
見慣れすぎててでかく感じない件
あと、三輪さんは呼ばれないと行けないらしいです
迷い込んで建物(神社)の後ろから出てきちゃったといは肝が冷えたなあ・・・
おお、地元の民!神の子孫?
@@田中健一-s1c 様
崇めてくれても
ええんやで?
@@Ch-lm2yn 様、もちろんそのつもりですよ(^^)/
箸墓の「前方部」は後年に後付けされたもので本来は後円部のみ、つまりは「円墳」だったという話もあったな。
箸は縄文時代には既にあったと聞いたことがありますが、賛同してくれる人いますか?
実際縄文時代の遺跡から出土してるからね
竹田氏は箸に訓読みがあるのは中国から字が伝わる前に独自に持っていた。としていますね。
私はお玉のようなもので煮物(スープ)をすくい、器(木を彫って作ったおわん)に盛り、中国からの使者に提供したと記録があると読んだことがありますよ。
大いに賛成です。
基本冬の寒い時期に冷や飯や冷たい魚を食べますか?箸を使うことは熱い食べ物を食べたいからです。
縄文時代にしても私の推測でしかありませんが寒い時期は土鍋でのナベ料理が主体だと考えます。
当然手づかみじゃあ食べられません。現代でも手づかみで食べる文化がのこっているのはインド、中東など冬でも暖かい地域だけです。
次の動画何時ですか?????????
8月中に出せたら出せます。お待たせしてしまって申し訳ありません。
箸墓古墳と大神神社の中間あたり、桜井市茅原に神御前神社という奇妙な名前の神社があります。
御祭神は倭迹迹日百襲姫ですが、この茅原という地名に何かピンと来ませんか?
「蘆屋道満と同居中」国会図書、三重、広島、石川県立、松江市立図書館に蔵書
「福岡県筑前町弥永の大己貴神社付近」旧三輪町と「奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)付近」の地名や周りの地形も偶然とは思えないほど酷似しています。
御神体も同じ三輪山。
また、大己貴神社は別称を大三輪神社 ともいい、古書には「大神(おおみわ)神社」とも ... 日本最古の神社とも言われがあります。
調べれば調べるほど面白い!
卑弥呼の墓という説があるのなら神功皇后というのはないのですか?
魏志倭人伝の記述では、卑弥呼の墓は円墳です。でも、邪馬台国への行程すら不正確じゃんと言えばそれまでですが。
明治政府が方形を加えたという話はウソです。平成の調査で、二重の周濠跡が確認されていて、当初から前方後円墳です。外側の周濠跡は広く、現在の印象よりも、本来はもっと立派な古墳です。
魏志倭人伝に大きさを書くとき、魏の人が「うーん、前方は儀式用で後円だけが墓だから150m!」って書くとは思えないんですよね
前方後円墳というものを魏の使途は知らないんだから、普通に前後合わせて280mで書くんじゃないかな
そもそも古墳時代の人が、前方後円墳の大きさについて前と後ろを分けて話をしていたのかも分からないですし
当時の人は前後合わせて一つの墓と認識していて、分けて考えるようになったのは現代になってからってことはないでしょうか
こういう伝記を書くときは、小さいほうと大きい方の数字があったら大きい方の数字を書くと思いますし
コメントありがとうございます!
私は、魏の人が「うーん、後円だけが墓だから150m!」は全然有り得ると思います。
重要なのは、魏志倭人伝は国の公式な歴史書であって、魏が邪馬台国に派遣した使者の報告書では無いという事です。歴史書を編纂していく際に、不都合な事実を改竄していることは想像にかたくありません。
仮に卑弥呼の墓が箸墓古墳だとして、魏の使者が大きさや前方後円墳という形状についても詳細に記録したとします。しかし、幾ら王でも蛮族の墓が280mもあるのは中華思想的にはNG(魏の基礎を作った曹操の墓は約736平方mだが、箸墓古墳は約560平方mで、大差ある訳ではない。) なので、実質的に墓の部分である後円部だけの大きさを採用した。
このようなストーリーでは如何でしょうか? 前方後円墳が中国には無い形だからこそ、現代人のように前と後ろで分けて考えられたというのも有り得ると思います。もちろん、yukkeyさんが仰っていることも有り得る話だと思います!
以前より箸墓と大市墓のどちらがより適した名称か悩んでいます。「箸」が遣唐使によって伝わった
説もあり、卑弥呼の時代は手で食していたとの記述もある一方、スサノオ神話や倭迹迹日百襲姫命の
伝説もあり、竹等の箸などは縄文まで遡るとも言われています。
最近ではこの辺り、大市の名に相応しく倭の中心地だった事が分かって来ました。
さて、その大市墓の主は「女性」なのかどうか?その姿はとても美しい。あえて女性の墓たりと
伝わっていることを思えば、その名は限られるが、その中で私は卑弥呼説は完全な否定派です。
1. 弟以外に姿を見せない老女王をはたして、民衆が敬愛していただろうか?
2. 民衆と大君が敬愛した女王とはヤマトとしての国つくりに貢献し、尚若くして亡くなった人
1から2への命題の移りは特定の人物を指さざるを得なくなる。
3. さらに飛躍すると崇神帝代をもう60年繰り上げればAC264年に西晋に朝貢する理由付けになる。
細かな内容は言っていないのですが、多くの反論を期待します。
どなたが埋葬されているか判らないけど、この辺り、気持ちよく散策できるように整備されています。
卑弥呼の墓以前に、この箸墓古墳が記紀・万葉集に書かれた箸墓なのかは確実とは言えない。
「魏志倭人伝」が日本に伝わってきたのは、いつ頃(誰、経由)なんだろう?
伝わる前の日本では、卑弥呼も邪馬台国も知らない状態だったのだろうし。(違うのか^^;)
発掘調査ができないので、なぜ古墳時代が始まってそして終わったのかの疑問も解明できないのよ。宮内庁の在り方には疑問というより反対です。管理はする必要があるが、学術的調査は認めるべきでしょう。
ピラミッドがあるので古墳を「権力者の墓」のみとしてみるのは仕方ないバイアスだと思っているが、「灌漑工事の残土を盛った説」が近年提唱されており、自分もそちらを支持している。明らかにその方が合理性があるんよね。のちに灌漑工事での功労者や時の為政者の墓にしたと。工事規模=古墳の大きさ=功績の大きさ となって合理的。
興味深い説ですね!もしよろしければその「残土説」がよくわかる資料などございましたらご教授願えますでしょうか?多方面の知見を得ればより真実に近づけると思うので(^^)
他の動画でも書いたが、そもそも卑弥呼って魏志倭人伝の記述からなのに、
なぜ日本語音読みの「ヒミコ」で研究するのかが全くわからない。
当時の魏の言葉で読んでから研究するのが筋だと思うんだが。
一応、古代の発音の研究があちらでも進んでいるようで、それに準ずれば「ぴぃみぃくぉ」「ぴぃみぃかぁ」「ぴぃみぃふぉ」みたいな感じになるらしいです。
@@nekono_mimikon
一番最後の読みかなぁって気はしてますが、まぁそんなのテメェの仮定にすぎません。
理由は姫という言葉とため息だと思うからです。
古墳を発掘したからといって何か確定的な事が分かるもの?
やっぱ稲荷山鉄剣みたいな文字資料が出てこないとねえ
もう大事なところは盗掘されてる。どのくらい被害にあってるのか?調べた方いいと思うが。
箸墓は未盗掘だってよ
良かったじゃん
「先っちょだけ・・・」ウケる(^^)
箸は 竹の者に点がついていますが
竹には 節があり 者に点(天)がつくと
不死の女神となります
大物主 不動明王にしてしまった
愛染明王なのです
節姫 八百姫
古墳の謎は日本のミステリー
私たちシャーロックが謎を解き明かします🌞
私が学生時代(もう30年も前)の話ですが、考古学で邪馬台国を調査しているとある大学教授の講義を半年間受けました。
その教授曰く、元寇のころまで中国の人は、九州の門司の先に下関があると思っておらず。薩摩半島の先に下関があると考えていたという文章が残っていると講義していました。そのため、魏志倭人伝による帯方郡からの邪馬台国の移動距離では畿内説に届かない。という変な仮説の講義を受けました。今考えると、お偉いさんの解釈は本当に強引感がありますね。
関係ないですがエジプトのピラミッドは墓では有りません
南米のピラミッドのごく一部は墓だったようですが
神殿説とか、あと国家事業としてとかですよね。私は古墳は、田んぼ作るための開拓の副産物説→もったいないので殯(もがり)として再利用説だと思っています。
正直、道を挟んだところにある素麺屋はとても美味しかったです❤️
前方後円墳はギリシャ大文字のアルファとオメガがテルテル坊主の形に結合して、神を意味しイエス様がメシアである、と啓示する。
古墳の上に生えてる木々って意図的に植えてあったのだろか、自然に生えてきたんだろか
自然に生えてきたのかなと思います。古墳建立直後は、土だけで、その平らな土のところに、ハニワがずらーっと並べられていました。木があっては、並べられないですので、今みたいに、うっそうはしてないですね。
自然に生えて、しかも根は古墳まで破壊するので本来は伐採除根すべき。
宮内庁の怠慢。
@@sunsun2181
土ではなく表面は葺石で固められてました。
なので下から見上げると石積みの丘の縁辺に埴輪が並んでる状態ですね。
@@コウダイ-r1v
今伐採伐根したら墳丘が崩落しますが・・・壊したいの貴方?
@@anaisno1
木がこんなに育つ前にやるべきだったって事だよ。
植物が盛り土維持に効果があるのは知ってるが、あきらかにこの現状は育ち過ぎ。根を撤去したら古墳が破壊されると言うなら、それはもう破壊されてるということだ。つまり手遅れ。1度伐根して穴に土を補給補修して昔の遺構を再現しなきゃいけないだろう。
宮内庁が管理出来ないから地元のボランティアなど有志で管理した方がいい。いい加減明治維新のデタラメを正す良い機会だ。
卑弥呼の墳墓は円墳。前方後円墳である段階で違いますね。
卑弥呼の墓/円墳説はいろんな人がおっしゃってるんですが、その根拠を知りたいです。よろしければ教えてくんなまし(^^)/
@@田中健一-s1c さん
根拠は魏志倭人伝の「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」の部分ですね。直径150mほどの塚。ここから方墳や前方後円墳などではなく、円墳ではないかと考えているわけです。
@@pandaman145 様、ありがとうございます。「径」を円の径とのご判断なんですね。前方後円墳であっても円墳+付け出しと考えればそう取れなくもないと思うのですが。。。後円部墳丘が高く(塚)、前方部が低く平に慣らされていて祭壇状になっていると見えるのですが、いかがお考えですか?
墳墓祭祀の発祥の地と言われる出雲「四隅突出型墳丘墓」では墳丘上で祭祀を行っていたと思しき遺構が発見されており、それらを継承すると思われる前方後円墳でも平らな前方部から2段3段高い後円部に向かって祭祀を行う図式を想像すルコとは可能かと思うのですが。。。
@@田中健一-s1c さん、お詳しいですね。当時、塚は何を指したのかは分からないですからね。塚=墓として、前方後円墳がトレンドだったとすれば、塚=前方後円墳ですからね。となると径百余歩という言い方がひっかのもまた事実なのです。知り合いなどは「魏志倭人伝の記述を信じるの?」と言いますけど、気持ちとしてはそのまま読むことに意味があるとも思うので。
@@pandaman145 様、ご丁寧なご返信感謝(^^) 小生の田舎にでかい前方後円墳がありまして、今は墳丘の上にでんと神社が鎮座しております。前方部が参道、後円部が社殿になっていてここから上述のような妄想を広げたしだいです。測量図に基づく復元の様子をみても後円部の盛り上がりに平らな前方部。古墳主体部のある円墳部墳丘を祭祀主体とみて、前方部で儀式が展開されたのであれば「円墳+突き出し」説もありかなと。
古墳が天皇の墓だとわかると宮内庁に管轄になり一般人は入れなくなります
箸墓古墳の築造年は従来説の通り34、50年代が正しい。
纏向遺跡の年代は290年代から37、80年代の遺跡である。
畿内説の根拠は年代しかない。
年代がズレたら全て崩れてしまう脆い根拠に
依拠している。
その畿内説の年代は歴博の炭素年代に依拠しているが、炭素年代もつまるところ、年輪年代法に依拠するしかない。
何故なら、大気中のc14濃度は常に一定ではなく、その年の宇宙放射線(大部分は太陽活動)によるけど、太陽活動は常に変動してるし、気象条件にも左右されるが、気象条件も常に変動している。
その変動を加味して補正しなければ炭素年代法はまったく意味がない。
しかし、それらの記録は唯一年輪に記録されている訳だから、c14濃度による炭素年代法は結局は年輪年代法に依拠しているのです。
日本の場合は国際標準年輪年代法だとまるで合わないので、奈良の橿原歴史研究所だったかの光谷拓実氏が開発した日本産樹木による年輪年代法が使われている。
ところが、その年輪年代法だと600年頃創建、670年頃全焼し、701〜10年頃再建された法隆寺の五重塔の芯柱が594年の伐採と百年も古く狂ってしまう。
畿内説ではこれを無理矢理、え〜い、ンな物古材を使ったんだ‼︎と強弁するしかない。
この解説も、え〜い、ンな物、古材だぁ!と言う前提での解説ですね。
九州説はもちろん、百年も古い古材ではなく、690年代に伐採されたものだろう、と言う極めて常識的な立場で考察してます。
すると、箸墓よりずっと古い勝山古墳で発見された板材の伐採年は180年+アルファ(周辺部の削除年輪分)ではなく、280年代+アルファとなる。
すると勝山古墳は300年代くらいとなり、その後にホケノ山古墳が築造され、その後に箸墓古墳となるので、結局34、50年代が正しい事になる。
歴博のC14AMSが「必ず100年古くでる」と言う科学的拠が知りたいです。そのメカニズムを含め重要なことだと思います。もし素人に看破される程度の稚拙な誤りを犯しているなのならそもそも学説としてすら認められないはず。正面切って科学的な論拠を持って反駁する論考を未だ見たことがないので是非見てみたいです。
田中さんには既に法隆寺の五重塔の芯柱が701〜10年ごろ再建されたにも関わらずその芯柱の伐採年が光谷氏の年輪年代法では594年の伐採となってしまうと言う動かぬ事実をお伝えしています。
ですので、田中さんがこの事実を
1、他の大多数の考古学者のように、
んな物百年昔の古材を使ったのだ‼︎
どう言う経緯かは不明。
しかし、たまたま古材があったのだ!それを使ったのだ!
2、北部九州説論者のように、
古材が都合良くあったのだ!と言うのは
ご都合主義そのもの。まったく非科学的、不合理な妄想。
科学的かつ合理的に考察するなら、年輪年代法が百年古く狂っている、と結論づけるのが正しい。 つまり勝山古墳は290年台以降の築造であり、その後の箸墓古墳も34、50年代の築造で正しい。(従来説)
のどちらを選ぶのですか?
常識的に考えるなら、「たまたま百年昔の古材があったのだ!」などと言うバカバカしい主張はあり得ないでしょう。
でもそれが畿内説の笑えない(いや笑えるか)実態ですよ。
この年輪年代法批判は詳しくは鷲崎弘朋氏の年輪年代法批判に詳しいです。
氏によれば、640年代以前の記録との照合可能な15事例(法隆寺五重塔の芯柱を含む)全てで記録より百年以上古い伐採となってしまうのです。 どうぞ読んでみてください。
畿内説は鷲崎論文へのまともな反論はほとんど抜きで、光谷流年輪年代法を無批判に受け入れて(大歓迎して 笑 鷲崎氏は無視で〜す 笑)あたかも決定済みであるかの如く、箸墓古墳の築造年代は24、60年代だから云々と繰り返しているのです。
考古学会と言うところはかつての旧石器捏造事件でも捏造された遺物を無批判に大歓迎して歴史教科書にも大々的に載せていたのですが、
それが一素人グループの毎日新聞の張り込みで自作自演の捏造だった事が暴露されて一夜で学説が崩壊してしまった事件でも、学会として誰一人責任を取らなかったところですよ。
まったく体質が変わっていないのですよ。
@@風野小太郎-o6h 様、貴重な情報ありがとうございました。私の理解では
①光谷判定の一部に鷲崎さんが疑義を唱えていること
②光谷判定は追試検証を受けていないこと
③ ①についてどちらが正しいのか第三者による検証が行われていないこと
④鷲崎さんの論拠として、100年修正を加えてもそのC14AMS値が歴博準備の「日本産樹木較正曲線」と矛盾しないこと
以上ですが、光谷判定は追試・検証を受けていないのには驚きました。サイエンスの常識ではあり得ない。同様に鷲崎説もまだ追試・検証を受けていないのでこれを「正」とするには時期尚早かと。標準木データの開示が必須ですね。
鷲崎さんの提唱される様に、全部もう一回C14AMSで再評価して白黒はっきりさせて欲しいものです。
ただ、鷲崎氏も「古材と再判定されるとしてもその可能性は否定しない」と述べておりまだ「動かぬ事実」と述べるのには時期尚早かと。第三者の検証待ちでしょう。であったとしたら尚更年代判定には慎重になるべきで「年代特定は有力な反論あり検証待ち」とすべきでしょうね。
だからと行って九州説が正しいとの根拠にもなりませんけどね。
情報のご提供、重ねて御礼申し上げます。感謝(^^)/
@@風野小太郎-o6h様、鷲崎提案によって光谷判定が揺らいでいるわけですが、考古学会が信頼できないとするなら、これまで考古学会が営々とと築き上げてきた土器編年に基づく年代観は何を持って正しいとするのでしょうか?「古墳時代は4Cから」の根拠もなくなるのでは?
卑弥呼ちゃんは
かわいい女の子だったんですか?
多分そうだと思います。知らんけど。
FGOの巨乳痴女卑弥呼ちゃまなら忠誠を誓います
伊勢神宮は、2500年前に京都の天橋立の近くにありました。3種の神器が皇居があるのは、困る事があるのとゆう事で、祟神天皇の時に色んな土地を転々として伊勢に3種の神器が納められた。今も元伊勢神社は、あります。ここには、真名井の井戸があります。石川県白山市の金劔宮にも真名井の井戸があります。祟神天皇が紀元前95年に作られたとあります。卑弥呼が統治したのが242年から248年、 700年を超える月日の差は無理があるのでは?新井白石は、邪馬台国と邪馬壱国とあったのを邪馬台国に統一したそうです。この辺に問題がありそうです。
魏の使者の記録に、卑弥呼の墓は径100余歩・・・とあるので、円墳でないとつじつまが合わないんだよな。どんなぼんくらでも前方後円墳を円墳と見間違いはしない。そもそも、箸墓みたいな巨大古墳つくれる大勢力なら、戦争で負けそうだから援軍頂戴・・・なんてわざわざ帯方郡になきついたりしないわ。でその返答が「魏の旗かしたるから、これでがんばれ・・・」だぞ。畿内説は根本的な部分で狂ってる。牽強付会もたいがいに。
前方後円墳は墳形を仔細に見れば、円墳+突き出し(前方部)と見れなくもないのですが。後円部は前方部に比して墳頂高く盛り上がってるので。。。こじつけですかね?
あと、軍事力って直接の行使だけでなく「威圧」「示威」も立派な軍事行動と思うのですが。その際「錦の御旗(黄旗)」を掲げて「威圧」することで「戦わずして勝」ことも可能になろうかと。結構戦争って消耗するので。。。。これもこじつけですかね。
@@田中健一-s1c まあ、魏の使者が前方後円墳を「径100余歩」と報告書に表現するものかどうかって話で。もし前方後円墳のような特異な墳墓を見たなら、その突出部を何らかの表現で嬉々として書かないはずがないと思います。また、100余歩・・・60m前後の小型古墳ですので、なおさら巨大前方後円墳ではありえないと思います。
軍事については、敵対勢力が丸腰に近い使者の往来を見過ごすはずが有りません。当然、挟撃のための相談と疑います。1回きりのお忍びの交渉なら成功もあるでしょうが、生口ぞろぞろつれていく往来など論外で中間に敵対勢力がある場合は突破できる軍編成でなければならないでしょう。
旗については、数千数万の軍勢が動員される大国同士の戦いになれば、その敵対勢力を威圧するためにはそれに見合う「ブツ」が必要で黄旗で威圧が効く条件として、敵対勢力も魏の実力を十分知っている必要がありますが、邪馬台国の敵対勢力側の使者が魏に到来した記録はなく、「なにかでかい国があるらしいけど知らんなあ?」程度でしょう。それを威圧するのにただの旗が効くものかどうか甚だ疑問でしょう。
@@たぬきねんね 様、貴重な視座、ありがとうございます。弥生時代中期には威信材たる大陸産の鏡や刀剣類が全国に伝播するようになります(全国といっても関東近辺までですが)また利器としての鉄器も当時輸入に頼っていたわけで(国内製鉄が確率されていない)それの供給元としての「大陸」の存在は各地の首長達の知るところであったと思われます。邪馬台国は連合王国と思われそのバックにはさらに強大な「魏」がある。またそれは同時に「鉄器」の流通を牛耳られていた証でもあるので、となればその「威圧」効果は抜群ではなかったかと。。。
@@たぬきねんね 様、追加で失礼。。。
径百余歩=60mとする根拠はなんなでしょうか?これ諸説あり当方困惑しております。
また、コメ中「挟撃」とありますが、位置関係が飲み込めていません。できましたらご説明をお願いしたいのですが?
あれ?倭人伝に 径100余歩 と有ったと記憶していますが。100歩ちょいであれば、1歩60cmとしてざっと60mでは。
もし畿内説の場合は、敵対勢力が九州か中国地方になるので敵対勢力からみて挟撃の危機になります。(敵対勢力が近畿以遠の東海関東東北の場合は邪馬台国が近畿から九州一円を支配下に収めた大帝国になってしまい、邪馬台国が発展してヤマト王権に成長することになりますが、そうなるとヤマト王権側の地方討伐戦が不要になり四道将軍などとの整合性がなくなります。)
掘ったところで既に盗掘されてるだろうから歴史を根幹から揺るがすような物は何も出てこないと思うけどな
宝塚なんて宝が埋まっている塚が多いっていう逸話があったくらいのところもあるからね。
本人が物まね芸人に寄せていってる感じに思えるんだよなあ箸墓=卑弥呼説はw。
天照大神と、鬼道に長けた卑弥呼女王とは、別人です。
又、天照大神は、神話上の創作された女神でしかない。伝説や妄想から出た創り神。
宮内庁、さっさと学者に調査OKにすればいいのにねえ・・・・。まあ、英国みたいに、「えー、この王様は実は先代の王様の子供じゃない!」っていうDNA結果が出てくるかもしれないですが(苦笑)
他の国と違って、天皇家は3世紀とか4世紀の古墳時代から続いていますからね。
もしも、途中で断絶していたりしたら天皇家の沽券にかかわる。
また多くの歴史学者が、宮内庁が「○○天皇陵」と言い張っている古墳の半分近くは、別の天皇の墓である可能性が高いと言っているので、宮内庁としては特定されてはマズイと思っている部分もあるようです。
@@アサヤス-w8v
そう嘘付くように指導した明治政府がみんな悪い。
幕末から明治にかけては延喜式などの文献や地名、地元の伝承などを元に治定していたので、現在の基準から比べれば不正確になるのは仕方ないですね。
ただ200メートル以上ある巨大古墳を発掘調査なんて一体何十年かかるのかと…?発掘結果がでるたびに治定を変えていたらキリがない。
皇室解体願望を持つ左翼学者や、発掘調査に伴う公共事業を当て込んだ土建屋等を喜ばせるだけなら陵墓の発掘なんて永久にしないほうがましだと思います。
@@keroagunso
え?たったの200mでしょ?
逆に一年なら一年と期限を決めて調査許可すりゃ良い。
ようはやる気の問題。
@@コウダイ-r1v 雑な発掘で破壊されるくらいなら永久にしないほうがまし。左翼喜ばせるだけなら邪馬台国なんて謎のままで結構。どこぞのネズミの国じゃないけど「卑弥呼は皆さんの心の中に住んでいます」でいいです。
下劣な左翼喜ばせるカネがあるならそれこそ「福祉に回せ」と言いたいです。
もし、ここを発掘調査できたら邪馬台国論争決着するんだろうか?
畿内は、まあ邪馬台国ではないと思います。学派が、発掘予算がほしいから、畿内説にこだわっている先生がいるだけで(笑) むしろ、出雲一族の勢力の確認はできるかもしれません。大物主の奥さんかもしれないですし。
私は100%畿内だと思いますね😅
でも奈良盆地ではなくもっと広い範囲のはずです、七万ですから。
文化財発掘の予算に邪馬台国問題は関係しませんよ、普通。
特に奈良のように歴史的遺産が多い場所は、邪馬台国問題が特別視される事はあまり無いです。
長浜浩明さんの動画を見るといいですよ^^
申し訳無いですが、畿内説はファンタジーです^^;
@@pocapamas 特に得るものはありませんでしたね、畿内説で確信しましたよ😃
@@トミヤマ-c6r すみません。コメント主のKKさん言ったつもりでした^^;
あの動画を見れば、一発で古代の謎が氷解しますからね^^
後世のテキトウ補修で円墳から前方後円墳になったはずですよ。
えっ そうなん?
箸墓古墳は違いますよ。昔からずっと前方後円墳でした。
その手の話では桝山古墳(奈良県橿原市)のが有名で、おそらくそちらと混同されているのでしょう。意図的に方墳から前方後円墳に改修しているので適当ではありませんが。
まあ、当時の人がどう思っていたかやね。
円墳部が墓で、後方部は祭祀を行う場所と言う認識だった可能性は否定出来ないと思う。
まあ、実際の所は分からないけど。
それも長い年月で歴史の一部となる。そして現代も未来からこう言われる。
「なんかほったらかしにしてたから樹木でみんな破壊されちゃったようだよ」
後方部でなく、前方部の間違いね。
Up主さんには直接返信したことはないけど、こんなコメントも見て貰ってるのかな?
世界トップ盛り盛り日本史
このチャンネルの動画全てが畿内説論者が作った事は間違いないようだね。
邪馬台国が近畿地方にある可能性は非常に低いと思います。当然、卑弥呼の墓である可能性は非常に低いと思います。ただ、倭迹迹日百襲媛命の墓である可能性も低いと思います。実際に調べないと分からない事だらけなんですけどね。
2000年に箸墓古墳の周濠内から布留0式期とともに木製の輪鐙が出土している。池を混ぜくった跡がない事から後から混入した形跡はない。布留0式期は西暦260年から290年の間とされるが、鐙は中国で西暦290年から300年までに発明されており発明当初は金属だった(鐙を金編に登ると書くのはこのため)木製の鐙は更に後の時代になって高句麗周辺で発明された。鐙の発明と日本への伝来時期を考慮すると箸墓古墳の築造は西暦350年以降でないと矛盾する。箸墓古墳は卑弥呼の墓はおろか台与の墓でもない。木製の鐙の出土は畿内説の人は質問してもみな無視している。
農具や武器もそうだが、一般的に道具というのは、最初は木でつくられて、青銅や鉄製品に取って代わられるもの。
馬の使用は鉄器の発明以前からやってたんじゃないの?
鎧があれば便利だという発想があれば、最初は木製で作ったかも知れない。ただ壊れ易いし、腐食してしまうので発見されることが滅多にないというだけかも知れないし、今後絶対発見されないと断定も出来ないと思う。
鐙が発明される以前は紐に結び目を付け、足の親指と人差し指の間に挟んで足掛かりとして馬に乗り降りした。確認できる最古の物は302年に埋葬された鮮卑の墓から出土した陶馬俑。実物として最古の物は北燕(407~436年)貴族の馮素弗の副葬品。何れも金属製の片鐙。乗り降りする時のみ使用したため片方のみ有れば足りたからだ。最古の木製の鐙は韓国から百済時代(4世紀半)のもので木製に金属板を巻き付けたもの。木製の輪鐙は両方の足を通して使い、馬の乗り降りだけでなく、馬を操作するのに使った。金属製の鐙より進化したものだ。木製から金属に代わるのは日本のような樹木の多い国であり、一般に馬は樹木がほとんどない草原地帯に生息する。遊牧民であった鮮卑族だからこそ木製より金属の方が入手し易かった。金属も木と同じく腐植するが、陶器は腐植しない。金属製が先で木製が後時代に発明されたことが世界史の常識です。ちなみに箸墓古墳から出土した木製の輪鐙は5世紀初頭の特徴があるそうです。
お詳しい方に恐縮ではあるのだけど、木の多い日本だからこそ、金属製のものを真似て木で作ったとも考えられるのでは?
鎧の知識のある渡来系の人物もいたかも知れないし。
箸墓は出土した土器や炭素年代測定でも260〜280頃に出来たとする考古学者が多いと思うんだけどね。
崇神も3世紀終わりから4世紀初めの人物とする意見が多数であるし、記紀に拠れば、崇神が纏向に入った時には箸墓は出来てた筈だから。
出土例の少ない鎧だけで、全否定するのはどうなのかなと。
まあ、私も同時代にいた訳ではないから何とも言えんけど。(笑)
西暦290~300年間に中国で発明された鐙を箸墓古墳の西暦260~280年間に真似できるのかい?矛盾するでしょう。鮮卑族は中国の内地(旧満州付近)に住んでいました。そこから朝鮮半島の高句麗に伝来したのは半世紀後です。日本が高句麗と接触したのは広開土王の時代(380年ごろ)とされ広開土王と戦った時に初めて馬と遭遇したと考えられています。「中国より古い世界最古の鐙は日本だ」といえばお隣の国の何でも起源説と同じで世界の笑い者になりますよ。
箸墓古墳から出土した布留式土器の編年は学者により開きがあり、250年頃に始まったとする学者や350年以降に始まったとか、未だに確定されていません。
また炭素年代測定の記事を読めば分かりますが「260年~280年という値が出た」と表現し、最も多くの値が出たピーク時の年代については触れていません。公開されている調査結果のグラフを見れば分かりますが、ピーク時が350~400年となっており調査した全体の84.8%がこの間に含まれています。理科の実験でもピーク時を採用し他は誤差とするでしょう?年輪年代測定も手法が非公開になっており、他人が検証出来ないので信憑性がないとされてます。
すべて邪馬台国が奈良にあって欲しいと願う人たちの神の手なんです。
狛犬 なるほどね。箸墓の年代が不確定というのは理解できるが、纏向遺跡はどうなのかな? これも3世紀後半じゃないという見解?
また、3世紀末期か4世紀初頭と目される黒塚古墳は?
箸墓古墳には、邪馬台国の卑弥呼女王は、眠っていません。
鬼道に長けた卑弥呼女王様は、九州の阿蘇山が見える地の、何処かに眠っています。
え?
ヤマトトトトトトトトトトトトトの紐?
(難聴)
何かをひた隠しにする宮内庁…(はいはい、陰謀論 笑)
邪馬台国は北部九州です。箸墓古墳には当時はまだ全国を手中に収めていなかった大和「王権」時代の遺物が眠っているはずですよ^^
詳しくは長浜浩明氏の動画をチェック!
ruclips.net/video/06iCDVAh0FQ/видео.html
ruclips.net/video/zvDZL4Avjqk/видео.html
呼ばれたようなのでコメントを😃
まず北部九州には倭人伝を読む限りは存在できるような場所はないですね。伊都と奴国二万戸で一杯になりますよ。
当時魏の資料では高句麗でさえ三万戸の国なんですが😅
冒頭、歴史学は総合学問だとおっしゃってます。当世の大方の先生方も当然その辺の理解の上に論を張ってますよ。「先生方の勝手な思い込み」と切って捨てていらっしゃいますが、長浜さんこそ「考古学的事実」とか「社会学的考察」とか「政治学的考察」とかが欠落してるんじゃないですかね?
考古学的事実(観察的事実)と文献史学の見解の相違を埋めていく行為が「歴史学」なんじゃないですか?
字面通り読めば九州かなとも思えるのですが、前項「トミヤマ」氏のご指摘の通り考古学的裏付けがない。女山古墳群の出土遺物が出てましたが、こんなもの全国の首長墓と思しき墓では普通にでる(村長さんレベルですよ)。女山古墳群出土遺物から「盟主墓(30ヵ国を束ねる王・大王)」足るに値する根拠は得られるのでしょうか?
@@田中健一-s1c
邪馬台国は盟主と言っても熊本すら圧倒できずに小競り合いをしていた小国連合レベルです。
魏志倭人伝に書かれている「倭」は北部九州限定の話ですね。当時中国~東海まで手中に収めていた大和王権とは違います。あ、いや、違うと言ってもチャイナから見れば倭種ですが。(東にある千里の海を越えると、また倭種が住んでいるという記述。)
考古学的には、漢の時代から朝見していたという記述を考えると、卑弥呼の時代まで200~400年間あるのに、魏志倭人伝に書かれている倭人の使っていた道具の出土は九州が圧倒していますよね。
現代人が想定するような大規模遺跡が出てこないというより、その想定を疑った方がいいかもしれませんね。
神武東征が終わったのが前70年で、そこから勢力を拡大していき、卑弥呼の時代は九州平定を目前としていました。
長浜先生は大阪平野の発達史を調べ記紀を読み解きました。
九州制圧や刺青に関する記述の部分、まさに先生の言う通りですよね。
ちなみに、長浜先生の記紀の話は、田中さんはどうお考えですか?
記紀に関する記述は動画より長浜さんの本の方が詳しく載っていたかも。
安いので買って読んでみてください。
@@トミヤマ-c6r
トミヤマさん、レスするのを忘れていましたよ。
>伊都と奴国二万戸で一杯になりますよ。
魏志倭人伝には離島の戸数も書かれているので
福岡・筑紫平野が離島の数倍しか人口を維持できない、本土が離島に毛が生えた程度っていうのは肌感覚では理解出来ないので
是非そのロジックをお聞かせください。
まあ海外からも食料を調達出来る現代では当時とは情勢が全く違うので参考程度ですが
福岡や関東を見れば離島と本土では数百~数千倍の人口差がありますね。
いや、当時でさえ対馬壱岐は海を渡って貿易し食料調達してたと記述があるから、あながち間違いでもないかな。
それはさておき、出来たらでいいので、お願いします。
@@pocapamas
まず当時の魏史東夷伝によれば高句麗という、半島北側の国で三万戸とあります。
内陸部で当時は戦乱もあり荒廃気味の国ではありますが、倭の大国である伊都や奴国との比較を考えてみればどうでしょう?
ちなみに伊都は千戸ではなく一万戸という資料もあります。
また倭は基本的に海人の国々だと思いますので、内陸部に国々を作るか?という根本的な疑問もあります。そう考えると北部九州に奴国以上の海人の国、五万、七万戸と比定する事はとても考えられないと思います。
奈良に海はないという方も多いでしょうが、私は二上山や信貴山辺りを中心に河内湖周辺を含む畿内だろうと思います。
河内湖周辺は物部や蘇我の集落も多く海も近いですからね。
言葉が何言ってのか判らん。
ホモくさい会話のやりとりに古墳映える
性病でおじゃるな…
3世紀の大和地方に強大な国家権力が生まれるだけの経済的基盤はなかったと思う。当時の日本の商工業、貿易の中心地域は日本海側。瀬戸内海に船が通れるようになるのは、5世紀後半以降。箸墓は卑弥呼の墓ではないだろう。
出土品の年代測定など、誰のどんな恣意が働いているかわかったものではないし、当てにならない。宮内庁が古墳の発掘を許可しないのは、全てが覆されるからだと思う。
古墳はそもそも治水・灌漑などの土木事業によってでた廃土を盛ったモノだ。その証拠に、大和川流域に大規模な古墳群が存在する。洪水時には避難場所にもなったはず。水稲技術が大陸から導入され、基幹産業になった時期と符合する。
王の墓としての性格は、二次的なモノ。「王様、死んでも我らをお守りください」ということだろう。古墳時代が突如終わったのは、それ以上やるべき大規模土木事業がなくなったから。仏教が入ってきたのも大きいかも知れない。
考古学的にみれば2~3世紀に瀬戸内を始めとする西日本を抑えていたのは吉備です
その吉備の葬送祭祀が畿央部に入っているということは、吉備による畿央部の支配もしくは吸収合併的な連合が生じた証しです
もっと言ってしまえば、纏向遺跡は吉備の王の都と呼んでも過言ではないでしょう
2~3世紀の河内平野と大和平野は吉備の遺物だらけです
それから、古墳は吉備や播磨などの弥生墳丘墓から発達してきたもので、廃土を盛ったモノというのは認識不足に過ぎません
マウンドを作って、そこに遺体を葬るというのは弥生前期が存在し、受け継がれてきた墓制です
それに、河内平野を見ても古墳群や大きな遺跡があるのは、だいたい川の傍です
これは石材などの物資を運ぶのに便利だった可能性が高いからでしょう
あと、宮内庁が発掘を許可しないのは天皇が眠る可能性が高い墓だからで、覆されるからというのは邪推にすぎません
そもそも他の古墳の発掘によって、遺構遺物のデータベースができあがっており、この古墳を掘ればどういうものが出てくるとい
うのはじゅうぶん推測可能だからです
年代測定も含め考古学の成果を信じないというのは好き好きですが、信じないであれば考古学には口を出さないほうがよいですよ
@@00925187 様、秀逸な論考、感服です。
それが正しい気がする。崇神天皇辺りが本当は初代、でもそれでは出自が明らかになってしまうので
欠史にせざるを得なかった。
なんでもかんでも近畿説にもっていくなよな。有り得ない